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10号(2009年9月30日) 列伝 バーニー・ウィリアムス 他

はっちさん
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○MY MOVIE
○読書日記 
○スーパースター列伝 バーニー・ウィリアムス
○編集後記


○MY MOVIE
 2月に日本テレビ「スーパーサプライズ」に出演したときのもの。分数制限ありで、許可とってあります。
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 読書日記
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某月某日
 
 山田詠美著「AMY SHOWS」はとてもよかったのです。☆☆☆気分です。
 森瑤子さんを見舞ったエピソードとか。
 書評本というのを私はわりと読む。次に本を選ぶとき、参考になりますから。
 同じ理由で、斎藤美奈子さんの「誤読日記」も購入。これも☆☆☆。

 土井正三氏が死去。
 イチローがマリナーズ入りしたばかりのころ、長く話しこむ機会がありました。
 はるばる日本から解説者の仕事でアリゾナ入りしたものの、イチローとはぎゃく
しゃくしていて、間がもてなかったみたい。オリックス時代の話しを聞かせてくだ
さったが、随所にV9巨人のエピソードがはさみこまれ、とても興味深いものでし
た。
 
 入団当時とその前のイチローをどう評価したか。それが同時に指導者としての明
暗を分けてしまったようです。

 ちょうど仰木元監督もキャンプめぐり中。
 イチローも田口壮も別々な球場でたまたま目撃したのですが、仰木さんの姿をみ
かけると、「仰木さーーーーーん!」と叫びながら遠くから走ってきて、ワンコの
ようになついていました。

某月某日 
 
 飛行機に乗ったので、じゃかじゃか文庫は買いこみまhした。

 山本麗子著「料理に生き山で暮らす幸せ」。☆☆。
 井形慶子著「古くて豊かなイギリスの家 便利で貧しい日本の家」。☆☆。
 井形慶子著「井形慶子のイギリス式暮らしの知恵」。☆☆☆。

某月某日
 
 有吉佐和子「仮縫」。☆☆☆。
 
 直接は私に関係のない話しなのですが、登場人物は私の知り合いばかり。
 友だち(女)があるパーティーで仕事関係者(男)に会い、ごく普通に挨拶に
行ったらぞんざいな扱いをされたというもの。

 私もあるあるある・・・。似た経験ありです。
 たしかに人間同士だから、衝突が何年も前に一度ぐらいあったかもしれない。
それはケンカとはいえない程度の衝突。仕事上の意見の対立というか、どう考え
てもケンカとはいえないレベル。
 でも、先方は何年もの間、ずっとそれを根にもち、私への恨みつらみをお腹の
中でふくらませ、ベルトの上あたりをボリュームアップさせていたようです。

 仕事している女って意外と根にもたず、この程度のいさかいはさっさと水に流
してしまう人が多いのです。でも、男性はその逆が多いですね。疲れないのかしら?

某月某日

 電話で打ち合わせ。オフはまた東京に飛ばなきゃ。
 
 朝日新聞の出版部からフィギュアスケートのムックがもうじき出ます。私も長洲
未来選手とエバン・ライザチェックのところで、お仕事させていただきました。

 もう1冊-3冊、フィギュアスケートのムックが出るようです。
 
 それとは時期をずらし、今川知子さんと共著で私も1冊、手がけてみる予定です。
 未来ちゃんとキャロライン・ジャンの対談はそれ用。

 私ももう長く仕事してきたから、趣味や
興味あることを原稿料につなげるという行為自体、抵抗はあまりなくなりました。
 それに、この仕事はそれだけじゃ長くはつながらないんだもの。
 人と人のつながり。信頼関係。尊敬と愛情。お金では買えないものが、この世界
には多すぎるのです。

シャレーン・ワン
 実は長女が子供の頃に習っていたジェイミー・サンティーと長洲未来選手の
コーチ、シャレーン・ワンは2人ともカナダ生まれ。同じコーチ、同じリンク
で育ったから、教え方がそっくりなのです。

 

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 スーパースター列伝 バーニー・ウィリアムス(再録)
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「お金というものは使えば消えてなくなってしまうけれど、教養というものは身につい
たら決して消えてなくならない」
 それがバーニーこと、バーニャベ・フィグエレア・ウィリアムス・ジュニアの両親の
口癖だった。特に母親のルフィーナも教職についていたからことのほか教育には熱心で
、2人の息子たちーーーバーニーとイランーーーの才能をのばすためには努力を惜しま
なかった。
 日本の「お受験」とは少し事情が違っていて、アメリカの「入学試験」は勉強1本で
は突破することができない。ハイグレードな大学に入ろうと思ったら学業成績だけでは
なく、スポーツや音楽や絵画などの分野で「個性」を証明する必要があるから、それを
強くアピールしたエッセイを書いて提出しなければ、他の入学希望者と差をつけること
ができないのだ。同じ理由で、ボランティア活動をした時間数をきちんと申告する。守
備よく努力や才能を学校サイドに認めてもらえると奨学金にもつながるからだ。
 バーニー本人が熱っぽい口調で子供の頃を述懐する。
「ともかくこの世の中でいちばん大切なのは”教養”だというのが僕の両親の信念だっ
た。僕もそう思う。だから、僕は将来はプエルトリコの大学に進み、医者になるつもり
で勉強していた」
 バーニーはカリブ海に浮かぶ南国の島、プエルトリコの首都サンファンから車で30
分ほど離れたベガアルタという街で生まれ育った。
 プエルトリコ出身のメジャーリーガーといえば、なんといってもロベルト・クレメン
テが有名で、今もなお人々から深く敬愛されている。クレメンテがパイレーツで活躍し
ていたのと同じ頃、イルモ・フィグエレアというスラッガーがいて、弟のヘダンと共に
プエルトリコのプロ・リーグでは知られた存在だった。MLBのワシントン・セネター
ズの春季キャンプに参加したことはあったのだが、そこで人種差別に悩まされ、開幕を
待たずにプエルトリコに戻ってきてしまった。
 そのフィグエレア兄弟がバーニーの叔父にあたるのだから、野球もMLBも子供の頃
から身近にあったはずだ。が、ウィリアムズ兄弟はもの心ついた時分から音楽に夢中だ
った。というのも、バーニーの父親バーニャベは腕のいい職人で、ギターの腕前もクロ
ウトだった。家族が住む家も自分で建ててしまい、自作のバルコニーでよくギターを手
にしながら機嫌よく歌っていたから、子供たちも影響を受けたのだろう。
 特にバーニーは8歳になるまでには、好きな曲はほとんどすべて演奏できるほど上達
してしまった。
 十八番だったのは「Verde Luz」("Green Light”という意味)というフォークソン
グ。これはプエルトリコの海岸や山あいの美しさを歌いあげたもので、バーニーがバリ
トン・ヴォイスを震わせながらギターで弾き語りすると、おもわず大人たちもうっとり
聞きいってしまったものだ。
 野球をはじめたのは9歳になる直前。もともと母親がテレビを見る時間を減らすため
に思いついたことだったのである。
「テレビばかり見ていたらダメ。もっと外で遊びなさい」
 気候が温暖なプエルトリコでは1年中プレーできたから、アメリカ本土以上に野球が
人気スポーツだった。テニスボールとバットがわりの木の枝で、「スティックボール」
あるいは「ピックアップ・ベースボール」といわれる野球を簡単にした遊びが、道路や
公園など至るところで行われていたから、そこに加わるだけでよかった。まもなくバー
ニーはこの新しい遊びに夢中になりはじめた。
 ルールを知らなかったので戸惑いやミスが多かった。が、最初の4年は父のバーニャ
ベがほとんど毎日、キャッチボールや打撃練習につきあってくれた。早い段階でスイッ
チヒッターに興味をもちはじめたのは、プレルトリコ出身のメジャーリーガー、ホゼ・
クルーズやウィリー・モンタネスの影響だった。もともとバーニーは右ききだったが、
「両方で打てたほうがいいだろう」
 と思って少しずつ両方の打席を練習しておいた。この体験が後になって大いに役だっ
たことは言及するまでもないだろう。
 後にメジャーリーグ入りするホゼ・ヘルナンデスは同じ街の出身で、いわば幼友だち
だった。
「あの頃からバーニーは背が飛びぬけて高く、ひょろっと痩せていたが、ともかく足が
速かった」
 ホゼは地元の公立小学校に通っていたのにたいし、バーニーの親は私立に通わせてい
たのだけれど、学校以外では2人で同じ時間とグラウンドを共有することが多かった。
「1塁でアウトになったことはなかったんじゃないかな。バーニーはよく打ったし、足
は速いし、いつもセーフだったと記憶しているよ」
 実際バーニーは身長だけではなく、運動能力全般においてずば抜けていた。学校では
陸上の選抜チームに選ばれ、400メートル走ではトップクラスのタイムを維持してい
たし、鉄棒や平行棒など上半身を使う競技も楽々こなした。
 ギターのほうもつづけていて、13歳のときに「Escuela Librede Musica」という音楽
の名門校から奨学金のオファーを受けた。そこは数学や文学や歴史といった一般教養だ
けではなく、クラシックやジャズの基礎から作曲や編曲などをみっちりと専門的に学ぶ
、プロのミュージシャン養成学校だった。
 授業が終わるとバーニーは気のあう学友たちとそれぞれの楽器を手に、校内のスタジ
オに出向くのが日課で、そこでジャム・セッションをしながら新しいサウンドをとこと
n探求した。
 16歳になったとき、バーニーはすでにクラシックからヘビーメタルまで、あらゆるジ
ャンルの音楽をひととおり弾きこなすほど、上達していたのである。
 もちろん野球もつづけていたし、それなりに自信があった。しかし、中学生を対象に
したリーグ戦はクレメンス・スポーツ・シティと名づけられた球場で行われていて、バ
ーニーは「ミッキー・マントル・チーム」に所属していた。そこには後にテキサス・レ
ンジャースでアリーグMVPに輝くホワン・ゴンザレスやイバン・ロドリゲスがいて、
彼と同じチームでやっていると、自分はどうしてもパワー負けしているように思えてな
らなかったのだ。
 バーニーが当時の心境をふりかえる。
「このまま音楽と野球をつづけていれば、まず確実にプレルトリコ大学に奨学金で進学
することができると確信していた。僕のとっては両方とも同じぐらい大切だったからね
。そして、大学では医者になるための勉強をするつもりでいたんだ」
 とはいえ、こんな面々がそろったチームをMLBのスカウトたちが見逃すわけはない
。 当時ヤンキースのスカウトだったロベルト・リベラもその一人だった。
「もともとホワン・ゴンザレスが目当てで、彼の出る試合には足を運ぶようにしていた
。クレメンス・スポーツ・シティーではイニングの合間にサルサ・ミュージックが流れ
、ホワンはダンスが好きな男でね。その音楽にあわせてライトの守備位置で踊るんだ。
そのせいというわけではないんだが、あるときフライを後ろにはじいてしまってね。バ
ックアップに走ったのがセンターを守っていたバーニー・ウィリアムスだった。その足
の速さと運動神経のすばらしさといったら!その日以来、バーニーに注目するようにな
った」
 バーニーもヤンキースに関心があった。ファンだったといっていい。1970年代の後半
、プレルトリコ出身のエド・フィグエロアが成功していたことも手伝って、プエルトリ
コにはヤンキース・ファンが急増していたのである。
 バーニーもフィグレロアが好きだったが、1977年と1978年はワールドシリーズを全試
合テレビで観戦して、レジー・ジャクソンやクリス・チャンブリス、ウィリー・ランド
ルフ、ミッキー・リバースら攻撃陣に憧れるようになった。
「あのピンストライプのユニフォームを着てみたいという気持ちはもちろんあったよ」
 というから、相思相愛の仲といっていい。
 しかし、1968年9月13日生まれのバーニーは、1985年の夏の時点でまだ16歳だった。
MLBのスカウト同士の取り決めで17歳になるまで、契約交渉をもつことができない。
 そこで当時ヤンキースのラテンアメリカ担当スカウト部長、現モントリオール・エク
スポズの国際担当部長のナブーロ・フェレイラが一計を案じた。つまり17歳になるまで
の6か月間、他球団のスカウトの目に触れないようにバーニーを隠してしまおうと画策
したのである。
 アマチュア選手を対象にしたベースボール・キャンプは北アメリカの至るところで開
催されていた。できるだけ一目につかないようにコネチカット州のものを選び、
「費用は全額ヤンキースが負担するから6か月間、そこですごしてほしい」
 と提案してきた。
 バーニーはこれを聞いて、
「少し考えさせてください」
 と答えた。まさに人生の岐路に立たされたのだ。迷ったし、悩んだ。念願かなってす
でにもう第一希望だったプエルトリコ大学から奨学金の申し出があった。これでもう将
来が約束されたようなものだと両親は喜んでいる。
「ものすごく考えたし、両親にも相談にのってもらった。ギターとヤンキースと医者に
なるという夢。3つのうちどれがいちばん大切かではなく、どれにいちばんプライオリ
ティ(優先順位)があるかを考えてみなさい、と父に言われて、はっとしたんだ」
 大学で医学を学ぶこと、演奏をつづけること、これは今でなくても挑戦できる。でも
、ヤンキースで野球をやるなら、この千差一隅のチャンスを生かすしかないではないか

「だいたいミュージシャンとして成功する可能性は、野球選手として成功するよりも確
率が低そうだったしね。僕の選択は間違っていなかったと思うよ」
 バーニーはにやっと白い歯を見せて、そう付け足した。
 1985年9月13日。コネチカット州でのロングステイを切り上げたバーニーは、17歳の
誕生日にヤンキースの入団契約書にサインした。
 次の春を待ってフロリダ半島に飛び、マイナーリーグのサラソタ・ヤンキースに合流
。その年は33盗塁、打率2割7分をマークして、ガルフコースト・リーグのオールスタ
ーゲームにも選抜されている。
 冬はプエルトリコに戻ってウィンターリーグで揉まれた。「カギュアス・クリオロス
」というチームに控えの外野手として参加したのだけれど、エリス・バークスやヘンリ
ー・コトーといった壮々たるメンバーばかり。後になってロベルト・アロマーもそこに
加わった。
「まだ野球の厳しさ、恐ろしさなんてわからなくて、仲間たちとワイワイ楽しいばかり
だったな。ギターやドラムスティックの代わりに、バットとグラブをもっているかのよ
うだった。でも、その反面、フルシーズン野球ヅケの生活を送るようになって、ようや
く緻密さや奥深さがわかってきた。音楽と一緒で勉強すれば勉強するほど面白くなって
きたんだと思う」
 翌1987年の開幕は1Aクラスのフォトローダーデールで迎えた。
 ところが、5月7日に肩を脱臼してしまうアクシデント。約1か月、ベンチを暖めな
ければならなかった。ケガの後遺症は後々までバーニーを苦しめるのだが、ともかく首
脳陣の高い評価は変わらず、11月18日にはマイナー契約ではなく、メジャー40人の枠
に入ることになった。
 1988年は1Aクラスのプリンス・ウィリアムでプレー。打率3割3分5厘をマークし
ていた。が、7月14日に大飛球を追ってフェンスに激突。手首を骨折してしまい、残り
のシーズンは棒に振ってしまう。
 その年もオフはプエルトリコの生家ですごした。骨も元どおりくっついたので弟のイ
ランたちと久しぶりに童心に返り、「ピックアップ・ベースボール」を楽しむことにし
た。
 バーニーが打席に入ろうとすると、イランが当然のように言った。
「兄貴はもうプロなんだから、ハンデをつけよう。右じゃなくて左で打ってくれよ」
 そのとき、脳裏に天啓がひらめいた。
ーーーそうだ!オレは左でも打てるんだ・・・・!」
  弟の投げた球を難なくヒットしながら、バーニーは打った官職を何度も反芻してい
た。プロ入りする前はしょっちゅう左打席でも打っていたのに、ヤンキースのユニフォ
ームを着てからは右打席ばかり。左のほうが俊足だって、もっと生かすことができる。
オフの間に打撃練習を重ね、春季キャンプでは監督に進言してみよう。
「なに、左でも打てるのか。それはいい。やってみよう!きみだったら”パワー・スイ
ッチ・ヒッター”になれるぞ」」
 バック・ショーウォルターが当時はまだマイナーリーグの監督で、キャンプには打撃
コーチ補佐として参加していた。さっそくマンツーマンの練習をスタートし、1989年か
らは「スイッチヒッター」として登録されるようになった。その年は2Aクラスのアル
バニーではじまって、シーズン途中には3Aクラスのコロンバス・クリッパーズに昇格

 3Aまでくればメジャーリーグまであと1歩といわれているのだが、ヤンキースは外
野手が豊富だったので、なかなかチャンスは回ってこなかった。
 1990年の春季キャンプでは最終日、つまり開幕の直前にカット。しかも、2Aクラス
行きを命じられて、かーっと頭に血がのぼってしまった。
「ここにいても無意味だ。もう全部やめてプレルトリコに帰りたい」
 バーニーは両親に電話してそう訴えた。
 脅かしでもなんでもなく、あまりにもショックが大きかったので、このときは本当に
引退を考えずにはいられなかったのだ。
「ウォレスカが身近にいてくれてよかった。彼女の励ましがなかったら、本当にヤンキ
ースを飛び出してしまっていたかもしれない」
 その年は3Aから声がかかることもなく、失意の日々がつづいた。
 しかし、つらいことばかりではなかった。イースタン・リーグではトップの39盗塁、
打率2割8分9厘、13本塁打、58打点をを記録した上に、9月には最初の子供、長男の
バーニー・アレキサンダーを授かったのである。
 バーニーはかつて自分の父親がそうしてくれたように、赤ん坊の枕元でモーツァルト
やビバルディをせっせとギターで奏でた。そうしていると、心が安らぎ、また1から頑
張ろうという気力も沸いてきた。
 1991年は3Aコロンバスからのスタートだったが、7月7日、ようやく待ちに待った
電話がかかってきたのである。
 レギュラーのロベルト・ケリー中堅手がボールを追って、フェンスに激突。ひじを痛
めて欠場を余儀なくされてしまったため、バーニーはいきなりスタメンでメジャーリー
グ・デビューを飾った。それが22歳の夏のできごとだ。
 犠牲フライと内野安打で、いきなり2打点。初安打はバルチモア・オリオールズのグ
レッグ・オルソンから奪ったものだった。
 オールスター休みをはさんで、バーニーはさらに打ちつづけた。5試合め、16打席め
にはエンゼルスのチャック・フィンリーから早くも初ホームラン。7月31日から8月6
日まで7試合連続安打を記録したかと思えば、8月21日にはいきなり5三振を喫してし
まうなど、荒削りではあったが、たしかの才能を感じさせた。
 8月28日にはテキサス・レンジャース戦でウェイン・ローゼンシャル投手から、左打
席初ホーマー。
 その一方でロッカールームではバーニーのもの静かな性格がからかいの種になった。
「バンビ」というあだ名をつけられ、「新人いじめ」には少なからず悩まされが、キャ
プテンのドン・マッティングリーがいつもかばってくれた。バーニーは今でもそのこと
を非常に感謝しているそうだ。
「ドン・マッティングリーは野球選手としてはもちろん、人間としてもすばらしい人格
者だった。”グッド・プレーヤー”と”グレート・プレーヤー”の違いについて教えて
くれたのも彼だし、”ヤンキー・ウェイ”について教えてくれたのも彼だった。」
 メジャーに定着し、スターダムをかけあがるまで、様々な困難がバーニーを襲った。
 まず、1992年は開幕ロスターに名を連ねてものの、2試合しか出場のチャンスがあた
えられず、4月15日には3A行きを宣告されたこと。7月31日にダニー・タッタブルが
故障するまで、バーニーは上にあがることができなかった。
 それから、1993年には肩の痛み、足の付け根のはり。バーニーはこの年はじめて、フ
ルシーズンをメジャーに在籍したのだが、21試合連続ヒットを記録する一方でスランプ
にも悩まされた。
 1995年の9月15日にはバーニー・ウィリアムス、ビートライス・ノエミにつづく第3
子の出産に立ち会うため、2試合欠場してプレルトリコの自宅に駆けつける予定でいた
のに、マリリン台風の到来で空港が閉鎖してしまうアクシデントもあった。
「女の子だとわかっていたから、ビアンカという名前はもう考えてあった。両親が付き
添ってくれていたから僕がいなくても大丈夫だったんだろうけど・・・。結局デトロイ
トのゲームに出場してから、プエルトリコに飛んだんだ。そしたら、今度は戻る飛行機
が欠航してしまい、本当に大変な思いをしたよ」
 また、6歳になった長男のバーニー・ジュニアがADD(注意欠陥障害)と診断され
たのも、大きな試練を与えた。
「病院でいろいろな検査を受けた結果、先天性にものでジュニアだけではなく、僕にも
同じ障害があることがわかった。それからはADDについて、いろいろな本を読んでみ
た。たしかに社会生活では何かと困難が付きまとうけれど、うまくつきあっていけば特
別な才能を発揮することがわかってきたんだ」
 ADDというのは行動が衝動的で落ち着きが無く、ぼおっとしていて名前を呼ばれて
も気がつかなかったりする症状をさす。心の病気や脳の欠陥が原因というよりも、脳神
経の発達の特性からくるものだということが最近の研究で明らかになった。
 NBAで人気スターだったデニス・ロッドマンは典型的なADDで、練習時間を守れ
なかったり、女装するなど奇行はめだったが、たしかに豊かな人間性の持ち主だった。
 バーニーは集中力が散漫になったり、神経がとがってきたのを感じると、ロッカーに
おいてあるフェンダー製のストラトキャスター・ギターを手にして、自分の好きな曲を
奏でることにしている。ロジャー・クレメンスいわく、
「バーニーがギターを弾くと、クラブハウスがたちまちカーネギーホールになるんだ」
 16歳のとき、音楽よりもヤンキースを優先したつもりでいたのに、
「気がついたら音楽にサポートしてもらいながら、野球をつづけていたよ」
 と苦笑いする今日この頃だ。
 2001年4月、肺の繊維症を患っていた父バーニャベが危篤状態に陥り、バーニーは10
試合欠場して付き添った。集中治療室で人口呼吸器をつけて横になったバーニャベは、
ガラスごしにじっと息子の目を見つめ、両手を必死にあげて飛行機のパントマイムをし
た。
「父はヤンキースに戻れ、と言いたかったんだと思う」
 後ろ髪をひかれる思いでプエルトリコの病院を後にしたバーニーをヤンキースのチー
ムメイトたちは総立ちで出迎え、代わるがわるハグしあった。
 もうマッティングリーはとうの昔に引退してしまっていた。もう「バンビ」と呼んだ
り、いやみを言ったりする輩もいない。ふと気がつけばバーニー自身が押しも押されぬ
ヤンキースの顔であり、チームのリーダー格に引き上げられてしまっていたのである。
 1月もたたないうちに、バーニャベは心臓発作に見舞われた。試合終了と同時にそれ
を知らされたバーニーは、全力で駆けつけたものの、到着する1時間前に呼吸は永遠に
とまっていしまった。
 北アメリカだと土葬が多いのだけれど、プエルトリコの慣習は火葬が主だったから、
父が愛用していたギターを棺に入れてあげた。そして、バーニーは一晩中、バルコニー
で自分のギターで「Verde Luz」奏でつづけたのである。
 
 バーニー・ウィリアムズ、33歳。ヤンキースでもっとも攻守共に安定した力を発揮
しつづけている男は、ポストシーズンにめっぽう強く、4度のワールドチャンピオンに
貢献している。ゴールデングラブ賞4回、オールスター出場4回。
 最近は普段着を例のとってもすっかりニューヨーカーらしくなったが、心のルーツは
今でもプレルトリコの風と土であり、文字どおり「グリーン・ライト」にあるようだ。
(了)

****************
  編集後記
****************

 不規則な時間帯で生活しているせいか、夜中や明け方にふっと眼がさめてしまいます。
つづけて長い時間は眠らないほうなので、昼すぎにはついうとうと眠たくなってしまう
んですけど。
 あまり夜中に一人で起きているのは、好きではありません。
 眠りが浅いせいか、へんな夢を見ていることも多いのです。
 圧倒的な孤独感をともなって、常日ごろの不満や不安がどーっと津波のように覆いか
ぶさってくるのは、こういう時間です。
 前回のメールマガジンも読みかえし、誤字脱字の多さにかなりめげました。
 ブログだったら後からこちょこちょ訂正できるんですけど。メールマガジンはむずか
しいですね。
 その反面、面白さにも目覚めつつあるので、今のところブログを更新する気持ちはまっ
たくもてません。
 不定期ながらメールマガジンをつづけてみるつもりでいます。
 お付き合いくださる方には、いつも感謝しています。
 今後ともよろしくお願いします。

___________________________________________________

編集責任 うめだようこ&bluesox production
ご意見、質問などは umedayoko2007@yahoo.co.jp
登録変更や解除は http://www.mag2.com/kaijo.html
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